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諸星大二郎展 異界への扉

先日まで、漫画家「諸星大二郎」の展示を三鷹市でやっておりまして、しばらく前よりオタク趣味仲間内で「これは行かねば…行かねば…」とザワついておりました。が、緊急事態宣言は明けたとは言え、どうにもこのコロナ禍下の現状不透明感、大勢でウハハと繰り出して万一異界の呪いにでも罹患した日にゃ職場に何と言えばよいやら…と躊躇したまま期日が迫る。
…ええい、もう30数年来のモロボシ同志の友人達の事は置いといて、とりあえず嫁さん連れて3つ隣の駅前ギャラリーまでペダルを踏んでしまへ!チャリで来た! ということで、終了前ギリギリにて行ってまいりました。

デビュー50周年記念 諸星大二郎展 異界への扉
2021年8月7日(土)~10月10日(日)
会場:三鷹市美術ギャラリー

漫画の展示って何? 原稿がズラズラーと並んでるだけでやんしょ? とも思われ、あまり期待値上げないように予備知識もなくスススと駅前小ビル5階へ上がり、スルスルと扉をくぐったのでありますが、見物を始めてすぐにガッツーンと衝撃的に面白い。あなた。これが実に。
やはり漫画原稿がズラズラーと壁面に並べられた展示だったのですが、すでにこれだけで目が離せない。だってだって、ただの「人様の漫画原稿」というには収まらんのですよ。
こちとら10代の終わりに友人から布教され、以来、専攻に迷ってはモロボシ的民俗観に影響され、通勤電車に疲れてはモロボシ的悲壮感にて会社を辞め、古墳から星雲から隠れキリシタンからカーゴカルトまで、日常と隣り合わせの異界の入り口は、はい、諸星大二郎のあのボソボソした描線こそが原風景として脳内しっかと焼き付いておるわけです。その異世界原風景をですね、30年もたったとある街の一角でですね、ダバダバーっと眼前に展開される。
「あっ、知ってる、ここだ」「あっ、まさにここです、この光と影」と、まるで明晰夢を連続で見るかのごとく、おのれの深あーい所に転写された景色の中をフラフラと彷徨い歩く、そういった観覧体験となったのですね。

「知ってる原風景」との邂逅でもあったのですが、そこに初めて読み取る差異もありました。なにしろ「生原稿」ですから、文字通り「手作業で作り上げられたアナログ画面」なわけです。紙焼き写植のネームのゆがみ、ノンブル、修正指示、トレぺかぶせた白抜き文字指示などなど、今はデジタルに置き換わったかつての漫画印刷工程の痕跡もしかりですが、まずもって作家諸星大二郎がいかにして白い原稿用紙にペンを走らせたのか、その不完全情報がはっきりと読み取れる点が「生原稿」たる観賞価値。
「おお、『フリオ』のこのコマは、こうして見ると筆と墨汁で描かれたオモセンだったのか」とか「『トコイ~トコイ~』と不気味で不気味でしょうがなかった呪文の声も、原画でみるとただの薄いホワイトの書き文字だわな」とか、どちらかというと生原稿を見ることで「魔法が解ける」要素が強い。

特に印象に残ったのが、大傑作「マッドメン」にて、ジャングルの闇の中に浮かぶ精霊の仮面のシーン。いや~、このコマ、本当に迫力あるんですよ。ニューギニアの森の中、現実の闇と異界の深淵が繋がり、暗黒の中に浮かぶ仮面が語りかけてくる。このベタ塗の黒の迫力が尋常じゃないのです。ちっこい文庫本サイズの再版本で読んでもゾゾゾとするのです。ですがね、生原稿でこのコマ見ましたら、ベタにけっこう塗りムラがあるのです。そりゃそうですよ、墨汁でペタペタ塗れば、けっこう濃淡ができますが、印刷には影響ありませんので。でも、その生原稿のムラを見てしまうと「そりゃ、人の手で塗った紙面だわな」とわかってしまい、「精霊の闇の完全なる無に空気ごと吸い込まれる」ような魔法は解けてしまうのです。これって、生原稿なぞ見ない方が良かった、ということなんでしょうか。

いや、それがですね、「魔法が解ける」事によって、「うああ、やはり魔法がかかっておったのだ…」という、あらたな恐ろしさにゾゾゾとなったのであります。
目の前に異界を展開・閲覧可能であれば、漫画家はそれを転写し、差異を埋めて完成度を上げる職人作業を行えば良いわけです。が、しょせんは紙とペン。不確かな筆と濃淡のある墨汁。もはや白だかグレーだかわからぬ薄いホワイト。それらの頼りない材料と手作業にて白紙の上に術式を組み、印刷出版工程を経て、遠く離れた読者の眼前にて異界を現出させる。これ、まさに「やはり魔法がかかっておったのだ…」と思わずにいられましょか。

そしてもう一点。今回の展示で予想外だったのは、諸星大二郎の生原稿をズラズラーと並べただけではなく、諸星的世界、作品に影響を与えたであろう種々民俗学的資料、文書、絵画など実物資料をやはりズラズラーと並べてあるところなのですね。
いやまあそりゃ諸星作品を読めば、モチーフとして実際の遺跡、古墳、神話、伝説、祭礼、他者の作品などなどがベースにドドーンと使われているのは明白なのですが、それはあくまで「漫画のために使われた」素材であって、決して「それら現実の研究テーマを紹介するために漫画を描いている」わけではないと思うのですよね。それなのに、いかにも「ほら、これが『暗黒神話』で描かれた古墳壁画ですよ」とか「ほら『海竜祭の夜』に描かれた海岸の連続鳥居は、この場所にそっくりでしょう」とかの答え合わせを見せられると、「まあ、そうなんでしょうけど、それそのものではないというか…」という、正解のような歪曲のような居心地の悪さを、一見この展示手法に感じてしまうのです、が。

いや、それがですね、一見「居心地の悪い答え合わせ」のような実物関連資料をズラズラと並行して鑑賞して行きますと、次第にこれが「うああ、諸星漫画と雑多博物実物資料群、同じ魔法がかかっておる…」という感動に到達したのですね。なぜか。
それはですね、諸星大二郎の描いて来た世界というものが、実は「異界を見せる」事にあらず、「現実と異界の境界を表現する」事にあったからである、と思うのですね。

縄文土器も、古墳壁画も、ニューギニアの仮面も、「山海経」も、異界を感じさせつつ作られた現実の表現です。「現実から離れ去る事なく、異界との境界を表現した」点において、諸星作品と同義なのですね。つまり今回の関連実物資料展示、けして答え合わせを目的としたものではなく、「同質の表現の系譜」として、まるで仲間たちのように並行して時間が流れるような感慨を得たのですよ。これは学芸員さん、わかっている。わかった上で、こうした並列展示空間を現出できると確信持って企画している。今回の展示の副題は「異界への扉」であり、「異界」そのものではない。これまさに諸星作品の魅力そのものであり、「異界」そのものよりも「境界」に神が宿る。「境界」を表出させるための手探り感、聖と俗、墨とホワイト、現代社会と神話、といった対比が、諸星生原稿にも関連実物資料群にも感じられたように思うのです。
順路の最後にドーンと設置されたポール・デルヴォーの大作「海は近い」を見ながら、「この寂しくも満ち足りた向こう側への誘いを、多くの人が感じ取っているのだな…」という共感を持って、会場を後にしたのです。

…さてさて、今回の諸星大二郎展、嫁さんについてきてもらったのはわけがあります。一応、「56億7千万年後にタケシが来る…」「ぱらいそさいくだ。」「あんとく様ーっ!」あたりの定型文が通用する程度には布教済の家内ですので、それなりに展示も楽しんでくれるであろうこと。加えてですね、わたくし、ぜひ、顔出しパネルでの写真を撮ってもらいたかったのですね。
『みろ このみにくい姿を! これも禁断の場所をおかした報いだ!』
これ、妖怪ハンターシリーズの最初期の1コマですけどね、いやはや最高ですか。
かつて、これほどまでに価値のある顔出しパネルがあったでしょうか。
「…禁断のヒルコに、おれはなる!」との熱におかされ、ほぼそれが目的で会場を目指し、嬉々とした表情で異界の境界穴に顔面をはめ込んだオッサンは、私をふくめ56億7千万人ほどもいるのではないでしょうか…。
moroboshi.jpg
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