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「ルックバック」の恐ろしさ

全世界あらゆる場所で集団行動、他人との密着、活発な交流が禁忌されるという史上初の異常事態が発生し、すでに一年半以上続いているわけですが、その影響は人によって天と地ほども差がありますね。もともと人込みが苦手、海外旅行も興味なし、閑散とした職場と夫婦二人だけの家を往復し、もっぱら室内作業しか行わぬ生活をしているわたくしのようなヘタレたインドア派にとっては、昨年から今まで、ほぼなんらの不都合も感じていないというお恥ずかしい限りでございます。
しかし、こうしてノホホンとエセ世捨て人を気取って日々過ごすこととは、たまたま手にした幸運な状況を甘受し、気が付いていないだけの他者の犠牲の上にあぐらをかいている点は疑いようもございませんので、ああ、おそろしい。手の届く範囲の日常皮膚感覚と、看破すべき全体像と、それをつなぐはずの情報伝達の姿が大きく大きく乖離して行き、もはや小太りの怠惰オッサンは周回遅れ・・・という罪深き全校マラソン大会のような風情を感じております。

さて、周回遅れの怠惰オッサンながらも、この異常事態下でのやりくりの心象を記録しておこうかなと思い、「秋にコッソリ集まった、多摩丘陵たらいまわしハイクの事を書こうかな」とか「年末にコッソリ飲みにいった、腐れ縁オッサン同士の酩酊アニメ談義の事を書こうかな」とか考えておりました。いえね、たまたま見た10年以上前のアニメ「秒速5センチメートル」(新海誠、2007)に「なんじゃこりゃあああ」と衝撃を受けましてね。ワタクシ古い人間ですので、「小説よりも実写映画よりも、キャラクターの心情がシンプルに立ち上がって動くのがアニメの良いところ」という感覚で育ちまして、やがて「アニメだからこそ複雑に葛藤を抱えた理解不能なキャラがいても良い」という時代になり、なるほどなるほどと面白く見ていたのですが、最近はアニメに限らず「一見、シンプルで定型的なキャラが立ち動く。しかし、なぜかその感情が伝わって来ず、奇妙な味の無さを感じる」という経験が多く、ははあ、ついにおれも後期オッサン者となり、伝わるはずのワカモノの感性が味わえないバカ舌になってしまったのだな…の物寂しく思っておったのです。

ところがですね、この「一見シンプルなキャラの感情が伝わって来ない奇妙な味の無さ」作品群の中に、無視できない傑作があるわけですよ。世界の多層性を重厚に描いたり、人間の業の深さを逃げずにとらえたりし、世間の評判的にも大成功を収める怪物作品が定期的に表れるもので、「えええ、世間的にはこの無味キャラの感情が、ちゃんと味わえてるの?もしくはキャラにとらわれず、作品全体の凄さが短期間で大勢に伝わっているの?」と不思議に思い、「時代にオイテカレタ」とグジグジ忸怩たる思いをいだいておりました。そのグジグジが、「秒速5センチ~」を見た時に、「あっ、これやがな!」と、「おそらく、ここからやがな!」と強烈にエポックメイキングな印象を得たのですね。

で、明るいのか病的なのか意味不明な新海誠作品の話を書こう書こうと思っていたところ、またまた同じ腐れ縁友人との話から、ひさしぶりに名作映画「ノスタルジア」(アンドレイ・タルコフスキー、1983)を見てしまい、「ああっ、やっぱりすげえ!これはもう唯一無二やがな…」と近年一の衝撃を受けて「こっちを書こう」と思ったのです。
いえね、高校時代に映画通の友人から「タルコフスキーええよ」と勧められ見た中で、特にこの「ノスタルジア」は中二病高校生の脳髄破壊力すさまじく、ビデオに録って繰り返し味わい、人生最多再見映画となっていたのです。当時は、ともかくその映像、風景、場所が「おれもまさに今、ここに居る」という染み込みかたをして、高校のあった八王子の裏山、河原、廃墟などをネクラ友人同士でジメジメと散策しつつ「ああ、ノスタルジア…」と悦に入っておったわけどす。
で、齢50を超え何十年ぶりに見たノスタルジアは、その鮮烈さ、いささかの衰えも感じず、まるで生まれて初めて味わう風景であるかのごとく脳内にビシビシ突き刺さってきました。
なんでしょうね、このタルコフスキーの映像。非常に制御され、選ばれたものしか画面に登場しない。しかしその立ち現われ方は意図的に演出したとは思われず、まるで「今、初めて見るだろうが、実はこれが世界だ」といったような、「知っていたはずの地元が、実は初めて人類が降り立つ異世界・異惑星であった」といったような鬼気迫るものがあります。画面自体は暗く、抑制的なのですが、初めて見る世界の情報量の余りの多さに、一瞬たりとも目が離せないという、強烈な引力を持った世界なのであります。

久しぶりに見たノスタルジアにて、もう一点驚いたのは、昔はさほど注意を払っていなかった「登場人物の心情」といったものが、強烈に伝わってきた事ですね。この話、故郷モスクワにニョーボ子供置いて、ローマの美人通訳と二人でイタリアを取材旅行しているオッサン詩人、アンドレイの内向的な話です。イタリアの田舎の温泉の風景が、暗く、静かに、故郷ロシアの風景とだぶって、妄想が入り混じる。取材旅行のテーマである、かつてイタリアに亡命したロシア音楽家の悲しいノスタルジーと、詩人アンドレイ自身の故郷への思いが重なり、とにかくインインメツメツと不機嫌そうな顔をしている。まんざらでもない美人通訳にも、関心を示さない。取材もさほど乗り気でない。ただ、ビクビクと「世界と自分の位置関係」に神経質になり、キョロキョロ、オドオドとしている。この神経質なオドオド表情を見ているだけで、なぜか恐ろしいほどに彼の脳内とリンクし、ノスタルジーに襲われ、死を感じ、自分の居場所が妄想のノスタルジーの中にしか見いだせないような、恐ろしい郷愁に襲われるのです。
そして、この映画をイタリアで撮り終えた監督アンドレイ・タルコフスキーも、その後ロシアに戻ることは無かったという…もう、ほんまもんの心の叫びなわけどす。

ということで、「よっしゃ、『今さらノスタルジア』という事で、いっちょ久しぶりのブログでも書いてみましょかね」と思っていた矢先、今週の月曜、「ルックバック」(藤本タツキ、2021.7.19公開)という一本の読み切り漫画が発表され、ネット界が騒然となったのであります。公開後2日で400万回読まれ、各方面、特にクリエイター界隈を中心に大絶賛され、「すごすぎる」「こんなの読んだらおれはもう描けない」的な感想が飛び交っており、よし、おれもちょっと読んでみるかな、と手を出したのですね。
衝撃を受けました。が、その衝撃は期待していたものとは違い、「これほど各方面大絶賛・感動の嵐の作品を読んで、なぜかワタクシ、登場人物の感情が何一つ心に響かないのですが!? まったく、感情の味がしないのですが!?」という衝撃でして、前述の「一見シンプルなキャラの感情が伝わって来ない奇妙な味の無さ」作品群の中でも過去最大のショックを受けてしまったのですね。
「こはいかに!?」ということでSNSで愚痴を吐き、友人たちと感想をぶつけ合い、なんとかその衝撃と折り合いをつけつつある本日、今のうちにこの事を書いておこうと思います。つまり、ここまでが導入でございます。長えよ!

公開後5日しかたっていない作品ではありますが、なにしろ瞬く間に拡散していること、本弱小ブログの閲覧数など有意性無きが如し、ということにて、ネタバレ全開でまいります。

■創作は誰のために
この話は、いわば「女・まんが道」でして、ネタ・勢いに特化したコミュニケーション強者である女児漫画家「藤野」と、同学年の引き籠りにしてコミュ障だけど背景美術に天才的才能を見せる女児絵描き「京本」の青春劇です。京本の天才的描画スキルに敗北を感じ、小6にして一時筆を折る藤野ですが、実はその京本が自分のことを「先生」「漫画の天才」と認めてくれていることを知り、有頂天になっていっしょに漫画を描き、ジャンプにて受賞・デビューする話です。
短編7本を掲載後、連載決定したところで、京本は本格的に絵の勉強がしたいと共作を降り、美大へ進みます。藤野は一人でジャンプ連載作家となり、単行本11冊出したところで、京本の死を知り、「自分は何のために漫画を描いていたのか」わからなくなる。
そこで、「もし自分が部屋から京本を外へ連れ出さず、漫画なんか描かなければ、京本は死なずに済んだのに」という別の可能性の世界が展開(もしくは京本が想像)されます。しかし、その別世界の可能性の中でも京本は藤野に憧れを抱き、藤野を思って描いた4コマ漫画が床に落ち、現実の藤野の目に触れます。
そこで初めて死んだ京本の部屋に入った藤野は、やはり京本と自分が出会い、いっしょに漫画を描いた日々こそがかけがえのないものだと再認識し、京本の4コマ漫画1本を手に仕事場へ戻り、それを目の前に貼り、仕事を再開する…という話です。

■なぜ感情の味がしないのか
良い話です。泣けそうです。にもかかわらず、ワタクシにはこの画面・世界から、どうにも主人公二人の感情の味が伝わってこない。なんぞ?頭がぶっこわれたかな?と思って、ネットの感想を漁ってみても、好意的な意見は「感動した」「京アニ事件への鎮魂、祈り」「映画『インターステラー』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』、オアシス『ドント・ルック・バック・イン・アンガー』のオマージュ」「藤野タツキ作品『チェンソーマン』とつながり、主人公二人はタツキ自身」「おれも自分の仕事を続けることが大事」「百合最高」というものであり、否定的な意見は「事件の犯人像が、いかにも統失患者風なのは、京アニ事件の犯人が事実無根に統失だとデマが流れたのといっしょであり、よろしくない」という部分に限定されたものであり、私のような「感情の味がしねえ」などと貧乏舌のグチを言っている書き込みなぞ、見当たりませんでした。
なぜ自分には主人公たちの感情が無味に感じられたのか? と言いますと、一つには絵柄の問題があります。いや~、絵が上手すぎる。美大デッサン的に上手すぎる描線なので、そのキャラクターの瞳の奥に、「どんな魂が流れているのか?」といった事が映っていない。そういった感情的な雑音・思い込みを排除して、「光と影は、このように物体を表出させる」という世界観が流れています。
いえね、これはもう、ストーリーのテーマから言っても、文句は言えない。おそらく近年の漫画作品の流行的にも、このタイプの絵こそが「感情も乗せられる」絵柄なのであろうかとは、思います。
しかしですね、時代遅れのオッサンの思いとしては、かつて、初期伊藤潤二の絵にあった「無感情でありつつ感情的であり、恐怖でありつつギャグである」という味わい、諸星大二郎の絵にあった「ゆがんでいながらリアルであり、雑に見えながら何を表現したいか明確である」という存在感などと比較するに、どうにも困惑するテイストなのでありました。

もう一つ、感情の味がしない理由として、こちらが本題なのですが「聞こえるはずの雑音が無い」という点が挙げられます。「あれ、漫画創作に集中するとは、こんなに微動だにせず、静寂な世界だっけか?」という違和感です。

そもそも藤野はマンガを描かずともクラスメートと交流しつつ世界を作っていた子供ですが、小4の時に京本の絵に衝撃を受けて、小4~小6の途中まで約2年間、「他者との関わりを捨て、京本に勝つための絵の修練」に入るわけですが、これ、かなり違和感ないですか? クラスメートや学校のネタを駆使して、勢いのある雑な絵でネタ重視のマンガを量産していた子が、絵が上手くなりたいからと言って、なぜ「世界に目を閉ざしたような盲目的な修行」に入ったんでしょうか? マール社の教則本買いあさって修行を始めたんなら、むしろ「モデルになって!」と周りの人物をデッサンしたり、あちこちの風景を写生したり、地面にはいつくばってパースを考えたり、といったシーンが思い浮かぶのに、この作品において「絵を描く」という行為は、「黙々と背中を見せる」という表現に終始しています。
京本と別れ、一人で連載「シャークキック」を11巻まで描いた課程も、ただ「黙々と仕事をする背中」のみが描かれており、本来あるはずの「編集者との闘い、葛藤」「取材や読者との関係」「脳内からあふれ出る様々なストーリーと取捨選択」といった、「轟音が鳴り響く」ような制作過程が排除され、「無言の背中」しか描かれていません。
もはやこれは現実の風景には見えず、心象風景、それもセラピー中の風景といった印象。

■藤野の世界
最初に登場する藤野の4コマ漫画「ファーストキス」は、「事故で死ぬ二人が生まれ変わってもキスをする話」です。
相手が隕石となって世界を破滅させようとも私にキスをしに来てくれる。これは京本というキャラクターとなって象徴的に登場し、京本がこの4コマ漫画「ファーストキス」を大事に保存し幸せそうに微笑む姿は、(それが別世界線の話であろうと、藤野の妄想であろうと)この軸で読めば確かに「名作百合マンガ」ですな。不条理に死んだ京本は、隕石になって世界を滅ぼそうとも(作品世界の論理を破壊しようとも)藤野に会いに来てくれた。だからその価値を知っている藤野は、二人ではじめたマンガ道を歩き続けよう、というストーリーです。
だがまてよ、と。これは本当に藤野と京本という二人の話なのか?
ひょっとして4コマ漫画「ファーストキス」に集約された、藤野一人の世界なのでは?

京本が死んだことを最初に知った時の回想にて、雪の夜に二人が未来を語るシーン。
「じゃあ私ももっと絵ウマくなるね!藤野ちゃんみたいに!」
「おー 京本も私の背中みて成長するんだなー」
これは、「本当は京本のほうがずっと絵の才能があるにもかかわらず、なぜか勘違いしてくれている京本に対して、強がりを言う」という恐ろしいシーンです。
これ、本当に他人の話なのでしょうか?「自分が自分の才能を勘違いし、背中を追い、虚勢と憧れを持って進むしか、創作の道は無い」というシーンなのではないでしょうか。

■ルックバックの恐ろしさ
「ルックバック」という作品、今現在ホヤホヤの大傑作であり、大問題作ですが、私にとって「感情の味がしない」という点において、個人的に好きな作品には入りません。
個人的な勝手な想像ですが、作者の方も、「読者を感動させよう」とは思ってないんじゃないでしょうか? 感動よりも、もっと孤独で静寂で恐ろしい、自分にとっての必然を描いたのではないでしょうか。

この作品にて、漫画を描くシーンがすべて「微動だにせず、静寂な背中」しか描かれていないことを、先ほど「感情の味がしない理由、違和感」として書きました。なぜ、こうした表現を選択したのでしょうか?
このレイアウトは、当然タイトル「ルックバック」の表象でもあり、「ライバル・仲間とお互いの背中を追いかけあうモチベーションの風景」でもあり、そしてストーリー上、「藤野歩」のサインが入ったドテラから見つめた映像でもあります。
ラストシーン、それまで同様、静かな背中だけを見つめる画角、このレイアウトを見つめるカメラは、死んだ京本の視線でもあり、サイン入りの自分自身の視線でもあります。そして、この作品中で数々描かれた同様の「背中」のシーンも、すべて「死者が自分を見つめる」視点、「自分が自分を見つめる」視点ではないでしょうか。

創作とは、物語とは、世界が前へ進むとは、死者の視線を背中に背負い続ける事に他ならない。感情に惹かれてルックバックすることがあれば、それは「よもつひらさか」から黄泉の国を振り返る事となる。自分の為すべきことは、目の前の方向にあるのだ。言葉にしなくても、振り返らずとも、死者は常に背中から見ており、自分自身もその死者の一人なのである。
…というのが、この作品の恐ろしい帰着点ではないかと思われます。
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