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ガウディ展とテッシー映画

 本年8月のお盆前、友人8名が集まって、北の丸公園にある東京国立近代美術館にて「ガウディとサグラダ・ファミリア展」を見てきました。

 そもそもこの時期、毎年8月中下旬のどこかで、高校時代のくされ縁友人数名にて、内向的かつ懐古的な集まりを長年続けております。高校2年生の時にですね、文化祭準備やら打ち上げやらで学校近くの公園に集まり、芝生に寝ころび、日が落ちて星を見上げるうちに気分高揚し、ちょうどアニメ映画「銀河鉄道の夜」のイメージで輪になって踊り狂った野郎どもの赤面過去。「よし、これが我々のケンタウル祭だ!」という事になり、その後も「今年のケンタウル祭、どうする?」「とりあえず、中央公園の芝生集合で。」という、どこが祭りなのか意味不明の、お盆の中二病幽霊の同窓会のようなことを重ねて重ねて、はや35、6年。重ねすぎやがな。

 さすがに35、6年もやっていると、基本的に「どーでもええ」気分にて、懐かしの芝生に寝ころぶこともなくなっておりますが、同時に「何かしらは、やらなあかん」という使命感だけは残っているものですな。夏が来て、今年もメンバーのユウジから「みなさん日程のご都合をお知らせください…」と連絡が届き、そうだ。ともかく、やるだけはやろう。たとえ意味を失ってしまっても、存在そのものに神が宿るのだ、的な。行く当ても帰る場所もわからんが、とりあえずいっしょにキュウリのウマにまたがってしまえ、的な。意思も目的も薄弱なままの死霊の盆踊り計画をモヤモヤ考えていたところ、「今回はガウディ展を見に行くのはどうか。」とタケシより提案。

 えっ、ガウディ展? コロナ開け連休の都心イベント、めちゃめちゃ混んでるよん? それよか近くの公民館の和室でも借りて、エアコン効いたヒロビロした部屋でダラダラくっちゃべるほうが良くね? と思ったのですが、メンバーのタクチャンより「あっ。絶対行きたい! 混んでても行きたい! うぉううぉう」と熱烈な反応があったため、「じゃあ、行くか」ということに。そういえば、あのグニャグニャデロデロしたガウディ建築の世界も、「銀河鉄道の夜」と同じように、我々世代間での精神的アコガレ地の一つと申しましょうか、「日常から離れ、あのような場所に同化したい」という後ろ向き日常逃避願望において、有力な異世界転生先候補地なのですね。

「では、せっかく見に行くからには、各自、事前に下調べしてから行こう。ガウディについて、もしくはバルセロナ、カタルーニャについて、もしくはスペイン全体、スペイン文化圏についてなどなど、興味のあるテーマに絞って下調べした上で見学し、午後は公民館の部屋を借りて、それぞれの発表と感想をぶつけあおうじゃあーりませんか。」
という、なかなかにカルチャーセンター・生涯学習教室のような健全さでもって企画し、あちこちお誘いの声をかけた結果、新旧さまざまな知り合い8人にて行ってまいりました。8人。これは、ネクラ数名で芝生に寝ころんでいた古参にとっては「今回の祭はでかい!」といえるイベントに。わくわく。

 ガウディ展、やはり混んでましたね。朝一番を狙いましたので、入場はスムーズだったのですが、中はすぐにごちゃごちゃ。おとなしく並んで解説パネルを読むのはどうにも面倒で、つい順路を先へ先へ、人の少ないところばかり見物。
 建築についての展示ですからね。実物作品そのものの鑑賞ではないので、途中を見逃してしまってもさほど後悔せず。そのかわり、短い映像解説が各所に設置されていて、これが解りやすくて良かったです。あのガウディのグニャグニャ、ウネウネがね、どういう発想やら実験やらで積み上げ、生やし、伸ばされていったのかが、動画で見ると腑に落ちる。「全体像のわからんキテレツ教会」だったものが、確実に「その建物を自分が訪れ、体感する場合のシミュレーション」として機能する展示。

 展示のクライマックスもですね、大きなスクリーンがドーンと広がり、NHKなんちゃらの撮った映像が、サグラダ・ファミリアの内部から上部から高精細に映し出され、ベンチに座ってじっくり見入る。若手日本人女性アーティストによる、讃美歌風かつ最新アースミュージック風の歌声が流れ、そこに浸って、しっかりと期待値を満たし、共通のイメージ、共通のイベント達成感を持って会場を出る、そんな風に上手に構築された一本の番組を見たような満足感。

 満足感はあるんですが、ヒネクレオッサン目線としては、同時にめちゃめちゃ違和感あるんすよ。「えっ、ガウディってこんなんだっけ? サグラダ・ファミリアって、こんな明るいパラダイス・ビューなの?」と。「よくわからん異世界ダンジョンだと思って入ったら、最先端映像アートイベント空間だった」みたいな。

 で、違和感を抱えたまま美術館を後にし、古巣八王子の公民館へ移動し、地下スーパーで買った弁当をむさぼりながら、展示の感想討論会。
「あの、カラフルなフルーツのような部分は、いつくっつけたの?あんなのアリなの?グミなの?イチゴなの?」
「まあそういう果物があの地にあったのかも知れないじゃないですか」
「単純にカトリック教会の機能としてどうよ? サグラダ・ファミリアの明るいガウディ趣味空間に入るより、古臭いゴチック教会に入った方が、より神を感じるんとちゃうん?」
「あーた、それはそもそも教会てのは別に建物の事じゃなくてですね!」
と、いろいろと安易な違和感・感想を友人にツッコまれながら話し合うこと数時間。各自の思いが一つに統合されるはずもなく、平行線かつ、まあこれで良し、という疲労感を持って夕暮れの街へ出、いつもの中華料理屋へ来たところ改装中にて途方にくれ、駅前ファミレスにてネコちゃんロボの運ぶパスタ食いながら安ビール飲み、続きのおしゃべりをダラダラ堪能する、という実に平和的サマーフェスタは無事、幕を閉じたのであります。
ちゃんちゃん。

 さて。
 いよいよ完成が近づき、より神の領域に近い華麗で光あふれる部分が姿を現したサグラダ・ファミリアの現状に、なぜわたくしは強烈な違和感を覚えたのか。それには実は、前フリとなります一本の映画がございます。

『アントニー・ガウディー』監督:勅使河原宏、音楽:武満徹、1984年、72分
がそれでして、今回の展示に行く直前、参考資料としてこの映画を見て、
「これだ。いつからか求めていた『そこにしか無い場所』とは、これであった」「タルコフスキーやらエリセやら、不思議に心に突き刺さる映画空間の成り立ちとは、ほぼこの勅使河原映画の目線そのものではないか」と衝撃を受け、
「わあった。ガウディ建築と人々の関係性を完全に理解してしまった」と40年前の映画に心酔した状態で展示を見に行ってしまったため、
「こ、これじゃなぁぁぁい!」と違和感を感じてしまったのですね。
 勅使河原映画、はたして何がすごかったのか。

 この、短めのドキュメンタリー映画、まずもって解説も語りも、ほぼ皆無なのですね。説明無しで、「ガウディの建築物」「ガウディの建築物周辺で暮らす人々」「ガウディと関係なく、ただそこにあるバルセロナの風景」が武満徹の音楽にのって淡々と流れる。予備知識無しで見た人には、ほぼ何もわからない。それが逆に、恐ろしいほどの説得力でもって迫ってきます。
 この映画から私が得た印象を集約しますと
「いつのまにか、もう、ある。」
という感じです。
 歴史的建造物というわけでもなく、近年、一人の建築家の才能でもって特徴的にデザインされ建てられたはずのもの。しかし、そんな情報は頭から抜け落ち、ともかくそこに目を向ければ、いつからあるのか知らないが「もう、ある」。「もうあるので、自然と中に人々が住み着き、溶け合っている」「もうあるので、もはや何がどこまで異質なのか、わからなくなってくる」という感じ。
 いや、実際のバルセロナの人々の気持ちはわかりませんよ。「歴史ある街並みに、こんな、けったいなもん作りやがって!」と思われてるかもしれまへん。わかりませんが、少なくともこの勅使河原映画のカメラは「異質なものに巣食い、静かに同化していく。カタルーニャの悲劇的な歴史を取り込みつつ、宇宙植物のようにあちこちに生えてきたガウディ生命体の中を、今日の少女が歩いていく。」という視点に徹しています。
 この視点。高校時代、友人から種々オススメ作品を教わる中でビクトル・エリセやタルコフスキーの映像に受けた衝撃。自分と関係のない外国の風景・出来事が、逆に、世界の価値がそこにしか存在しないかのような見え方をするカメラ目線。

 これは、どういうことかと言いますと、「創作物」と「現実」の中間視点、もしくは「夢」と「現実」の溶け合う世界の見え方、という事だと思うのですね。高校時代、ハイティーンと呼ばれる一時期に「ハッ。」と開ける世界の見え方。おそらく一般的に、大好きな作品世界にしろ現実の無味乾燥世界にしろ、それまで受動的に「見える世界」だったものが、能動的に「見る世界」に変化しうる瞬間。それまでの幼少期も、中に入り込んで逃避したいような大切な本や漫画や創作物はあった、あったけれども、高校前後の時期に「映画を見るような視線で、現実世界を見ることができる」ことを知る。創作世界と現実世界の相対性が溶け合い、「あっ、もしやこうした意識的な視点で、世界をずっと見ていくことができるのではないか」という解放感。

 さあ、どうでしょうか。人によっては、もっとずっと早く、小学校高学年あたりでそうした視線を獲得していたであろう友人もおります。中二病と呼ばれるような現象も、この類の一種かもしれません。
 一歩間違えば、「見たいようにだけに世界を見る」自己中心的な偏狭でもあるのですが、意識的・創作的に見ながら、同時に「いつからか、もう、ある。」ように受動的な観察でもある。自分の中にあるものが、瞬間的に外の世界に反映され、その世界を歩いていくような感覚。やはり、夢っぽいですね。

 まあまあまあ、そんなあれですよ。勝手に作ったヘンテコ建築物のようでもあり、重厚に世界を構成して人々と共存しているようでもあるガウディ建築。勅使河原映画に感じたそうした視点に対して、展示にて展開された最新サグラダ・ファミリアは、「リアルタイムの創作現場紹介」に偏って見えたのですね。「創作、えらい」みたいな。「はい、今、茹でてまーす!」みたいな。ま、そりゃそうでしょうよ、ある建築家の展示をするならば「創作の秘密」「創造側」に立って紹介しなけりゃ、「金かえせ」となりかねません。そうしてみると、やはり勅使河原映画の視点の方が異常であったと、言わざるをえません。

 この勅使河原映画は、古参メンバーたくちゃんの昔からのお気に入りで、よく話には聞いていました。彼が就職せずに漫画描きとなり、私も新卒入社の会社を早々に辞めて漫画描き始める前後だったと思うのですが、丘の上の彼の家で、やたら濃いコーヒーごちそうになりながらこの映画の話を聞き、「それで、今、描いてるんだ」と見せられた、数々のガウディモチーフのエンピツ画。この、たくちゃんのガウディスケッチを見せてもらった当時のワタクシは、「あっ。なんということだ。やはり、創作の道に踏み込むということは、目先の作品どうこうではなく、根本的なオノレの世界観を、しっかり生い茂らせていくことが重要だったのであるぞよ」と、なかなかの衝撃と羨望を覚えたのですよ。

 今回のガウディ展示見学会、参加者8名の心の中で、どのような衝撃や手触りや違和感があったのかは、公民館での討論を経ても、どうにも本当のところがわかりまへん。むずかしい。読書会や映画の感想より難しい。レポートのようなものをこしらえ、仲間内で回覧しようと思っていたのですが、今回わたくしの中で収まりがつかなかったせいもあり、煩悶の末にあきらめました。関係者スミマヘン。そうこうするうち、夏が終わり、妙な風邪をひいて熱がドンドン出て、懸案だった引っ越し計画が動き出してバタバタ準備しているうちに、戦争は起きるわビートルズのラスト新曲は出るわ、も、11月じゃありやせんか。こんなつもりじゃなかったんですが、こんなつもりだったような気もします。世界全体は、まるで私の創造物ではありえませんが、創造的に観察しようと意識するならば、その責任の一端からは逃れようもありませんね。とりあえず、ダンボール詰め作業と部屋の汚れ落としの続きに立ち向かうということで…。

追伸:「Now And Then」を聴いて、なぜか「あっ、Real Loveは、えらい名曲やったんやなあ!」と今さらながら感動し、そっちばっか繰り返し聴いてる周回遅れです。
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樋口です

武満徹とビートルズ…

間をつなぐのは、やはり「ガウディ」でしょ:
https://youtu.be/oxEKt1E_wN8?si=uu2mCXSrbxVBg0bg
by 樋口です (2023-11-06 20:16) 

カイヤ

おお、アランパーソンズのガウディイメージはこんなか!これが流れてたら、またまったく別物の映画に・・・
by カイヤ (2023-11-07 12:03) 

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