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同窓会

年の瀬おめでとうございます。

個人的に本年を振り返ってみますと、ズバリ「伏線回収の年」であったと感じております。
とりあえずワタクシ、50になったんですよ。ええ。
50と言やあ、人間50年ゲテンの内をくらぶれば、の50でげすよ。そりゃBMIも乱れるっちゅうねん。

で、50を数える本年に、長年疎遠となっていた旧友・恩師との再会の場が、不思議と立て続けに訪れたのですね。
高校時代の旧友数人と30年振りに連絡が付き、ピクニックに行ったりですとか
大学時代のサークルの定期演奏会を15年振りに聴きに行き、30年振りに当時の先輩方と飲んだりですとか。
そんな中で、もっとも長時間の準備をかけ、大人数との邂逅を果たしたのが、大学の専攻クラスの同窓会でした。

私が在籍していたのは国際文化教育課程・日本研究専攻という、何を学ぶのか一見解らぬ教室だったのですが、これは1980年代末当時、全国の教員養成系大学の中で起きた「教養系」設置の流れの一環なのですね。教員免許取らせるだけの学科では社会のニーズからずれていく、いっそ一般的な教養学部のようなものを教育学部の中に併設しちまえ、語学と多文化教育掲げて国際的な色を見せれば良かんべなあ、という「文系生き残り策」のようなものだと類推されます。
で、その1期生としてワタクシ入学しまして、日本史やら日本文学やら宗教学の授業を面白い面白いと見聞きした結果、まったく国際的でない国内一般企業に就職してしまったので、新課程設置の関係者各位の努力を水泡に帰すダメ学生でございました。そして卒業から四半世紀が経ちまして、近年の「経済発展に結びつかない文系学部は縮小せよ」という政策の激震にのまれ、私のいた「日本研究」クラスも、あわれ31年間の歴史に幕を下ろした、というのが昨年度末の事だったのですね。

さて、在学時代に卒論指導教官としてお世話になった教授がおりまして、このF先生が「日本研究」31年の歴史すべてに携わり、また副学長時代に課程再編の荒波に襲われ、文科省と学内教授陣との板挟みに会い、大変なご苦労をされて「日本研究」の死に水を取りつつ、次のクラス編成にバトンを渡した、まさに当事者としてすべてを見て来た方なのです。この先生から夏前にお電話をいただきまして、「昨年度末、日本研究の最後の卒業生が出て、クラスが消滅した。本年は自分も退職の年である。そこで、一度、歴代日本研究の先生方・卒業生全体の同窓会が開けないかと考えているが、どうであろうか」とおっしゃるのですね。

実は私は、卒業した大学のすぐ近くに住んでおりまして、職場の資料館も同じ市内であり、卒業後もF先生とお会いする機会があったのでして、「なるほど、これは自分が同窓会開催の段取りを組まんで、誰がやる」という気になったのでございます。
と言いますのも、卒業から何年も経った上で、地元資料館なぞで働いておりますと、学生時代の自分がいかにダメ学生であったかを日々痛感させられていた所なのです。いや、若輩学部生ごときが大学内で何を成すか、という事についてはもともと優劣に大差ないとは思うのですが、その根本的な態度と言いますか、先生方や学問という体系全体に対する学生としてのあるべき立ち位置、学問に対する学生としての意義というものが、確実に存在した。確実に存在したにも関わらず、当時の自分は、そんなものが存在するという事にすら気が付いていなかった。卒業後、「学生としてもっとこうするべきであった」という強烈な後悔を、年々強くしておったのでございます。
(「学生としての意義」とは何だったのか、という点については「世界のあらゆる事象は、まだぜんぜん調べ終わっていない」という事に尽きるかと思いますが、長くなりますので今回は割愛します)

そんな悶々とした後悔中年男にとって、今回の同窓会企画のお話は、「多少なりともマトモな学生の態度をやり直せる」機会なわけですよ。クラス編成の変遷を大学史資料で調べたり、歴代先生方、卒業生各方面に連絡を取ったりとかですね、「まだぜんぜん調べ終わっていない事を、いかに仮に整理して、思考処理可能なものにするか」というような作業を「歴史に幕を閉じた自分の在籍したクラスにおいて携わる」ことができるわけです。
「やります、私やりますんで。」という事で幹事役を引き受けまして、半年ほどの準備を経て、11月末日に母校内食堂を借り切って無事開催いたしました。

「日本研究専攻」卒業生約700名のうち115名、および先生方8名にご出席いただき、それぞれお話をいただいたり写真を撮ったりと、なかなかの盛会にて大成功だったと言えるかと思います。何十年ぶりに会う同期の友人も、事前準備やら料理手配やら会場設営やら手伝っていただき、当時は接点の無かった他分野の先生方ともあらためてご挨拶、お話が出来、F先生と事前に作った「日本研究専攻」の歴史など盛り込んだ小冊子を配ったりしましてね、言わば「季節外れの文化祭準備」みたいな浮わついた気分を、齢50にしてウキウキ味わえたわけですね。良い。実に良いわけです。

あらためて卒業生が集まってみますと、どうやら私のようなダメ学生だったのはごく一部の人間であり、みなさん、研究職に付かれたり、教育職に付かれたり、報道関係にて出世しておられたりと、しっかりと「社会と自分の関係性に立ち位置を確立し、思考処理可能な作業を重ねて来た」結果が、見て取れるのですね。

片付け、二次会を終え、後日の会計処理も終わり、はーやれやれすべて終わったねという事で、先日、同期を中心に、少人数でのお疲れ忘年会をやって来ました。
同席していただいたF先生含め、みなさん完全にクラスメイトなんですよ。とある大学のゼミの一風景そのままなのですよ。数十年の音信不通のブランクを超えて気楽に意見を言い合い、「そうそう、その観察眼こそ、まさにあなたの才能だよな!」と、旧友の脳内が手に取るようにわかるのですね。昔以上に。
良い。実に良いわけです。ダメ学生が無意識に撒き散らした伏線が、バッシバッシと回収され、年末の最終回にカタルシスを与えておるわけですよ。齢50にもなれば夢幻の如くなりにけるかと思われた関係性が、なんのなんの、俺たちの旅はこれからだ感バリバリにて現前しているわけですよ。
「なにこの上手なストーリー展開。2期制作確実じゃん」というオタク的手ごたえを感じつつ、本年の締めとしたのでございます。
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樋口です

おぉこれは爽快な回収事業。「目下の自分の事情だけ」ばかりを喚き立てるオッサンになることなく、過去の伏線を辿ることで自分を取り巻く人々や状況を歴史家の眼で観察する!

やがて「あ、中学生の頃のあの日のアレが今になってこの形になってる!」「ああぁあの羊水の記憶が今コレ!」等々、無限の伏線回収に吸い込まれていく。伏線は延々と回収するんだけど、ストーリーにオチはない。…生命現象って、そんなもん?!ヒエェ
by 樋口です (2020-01-02 10:14) 

カイヤ

暮れに友達からたまたま「能」の話を聞いていたんですが、「ストーリーにオチがなく、登場人物も消え失せたのに、伏線だけが延々と巡る」のはまさに能の世界観かもしれまへん。
by カイヤ (2020-01-02 22:12) 

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