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Re:時をかける転校生

コロナが世間をコロコロしているうちは、おれも家でゴロゴロしていて良い、といった歪んだ知見を得てボーっとしておりましたら、はや今年も残暑なのでして、いかがお過ごしでざんしょ。

九州にいる友達と「オンライン飲み会をやろう」とたくらみ、ここはひとつテーマを設定して予習の上で語らふではないか、という事で決めましたのが、「追悼:大林宣彦」。
有名な「転校生」やら「時をかける少女」やら「さびしんぼう」やら、わたくしほぼ未見でして、唯一鑑賞済みなのは監督メジャーデビュー作の「ハウス」というホラー映画のみだったのですね。

ま、この1977年作「HOUSE ハウス」を見た経緯も、かなり近年になってからでして、とあるイラストレーター友達と、美少女ホラー漫画家の伊藤潤二の話題で大盛り上がりしている時に、「カイヤさん伊藤潤二好きならゼッタイこれ見るべき」と彼からDVD借りまして、なるほどなるほど確かに同じ倒錯的美しさと笑いがありよるわ! とワハハハ笑って楽しく見たのですが、言わばこれ、趣味とわかって趣味の映画を見たような体験でして、ちょっと色眼鏡だったのですね。

で、今回、学生時代からの腐れ縁である九州の大学教授Iちゃん氏がテーマ作品として「おそるおそる」提案しましたのが、2007年、大林宣彦監督作品「転校生 さよなら あなた」でございます。尾道を舞台とした有名な1982年「転校生」に対し、こちらは舞台を信州長野市に移し、全く新しい配役で作り直した25年たってのリメイク作品です。

これが、予想以上に面白かった。面白い以上に、「本当にこれで良いんだろうか。」「そもそも映画にしろ小説にしろ、アニメにしろマンガにしろ、物語が成立するとはなんぞやねん。」「ぜんたい作品とは、どこを完成として目指すものなんや。」と、自分が傑作を見たのか失敗作を見たのか、S級を見たのかB級を見たのかよくわからん心境におちいり、いきおい1983年「時をかける少女」も見たところさらに衝撃を受け、今回の感想に至りました。ネタバレ全開にてまいりますのでご容赦を。

●大林宣彦という究極の学生映画●
日本に自主製作映画の地平を切り開き、テレビCM製作者としての成功後に商業映画へ乗り込み、角川美少女アイドル映画を確立し、本年4月に他界するまでおびただしい量の作品を撮りまくったという映画監督、大林宣彦。
その視聴者として、ほぼターゲットの世代だったであろうわたくしですが(1982「転校生」の時点で中1、1983「時をかける少女」にて中2、1985「さびしんぼう」にて高1でした)、当時から、おそらく現在においても一種「映画オンチ」である自分にとっては、特に見に行く動機も友達もおらず、関係のない「芸能界の話題」という感じだったのですね。「だって、薬師丸ひろ子・原田知世・富田靖子らの売り出し映画であり、ファンが見るための青春アイドル大衆映画でしょう?」という認識。

まいりました。ぜんぜん青春アイドル大衆映画じゃありませんでした。特に、伝説的に評価の高い1983「時をかける少女」の原田知世において、「こんなのアイドルじゃないじゃん! ただの、そのへんの棒読みチッポケ少女じゃん!(良い意味で)」と、大変な衝撃を受けました。
たまたま見た、たまたまカルト趣味的な1977「ハウス」が異常だったわけではなく、こりゃ、大林宣彦という人のモノづくりの根本姿勢が完全に異常なのでは、と。

膨大な大林映画の中で私の見たわずか3作品ではありますが、共通する事として、一言で言ってしまえば、強く「学生映画」だと思ったのですね。しかも「面白い方の学生映画」です。
「面白い方」とは何か? それは、簡単に言うと「自分が通う学校と知り合いが出てくる学生映画」ですね。

学生(特に中・高校生)にとって、「見慣れた学校、その周りの風景、特に仲良くもなく集団生活を送るクラスメート」が、誰かのたくらみによってひとたび「学生映画」としてフィルムに転写されるや、「そこに、あいつが映っていて、演技しているだけで面白い」という、究極の娯楽作品となるのですよね。この面白さとは何か。

実写映画とは、現実の風景や人を写し込んだものではあるけれど、現実を切り取っただけのものではなく、新たな創作物でもあるわけです。現実を材料とし、新たに立ち上げた「作り物」。自分の知っている「現実」であった風景・人物が、フィルムの中で「作り物」として立ち上がっている違和感、そこに「確かに新しい世界が生まれている実感、そして自分もそこに接続している実感」を感じ取る現象が、学生映画の面白さなのではないかな、と推定します。
逆に、自分の知らない学生映画、どこかの誰かが撮った「自分に関係の無い」素人映画においては、単に下手なだけで感情移入のできない、入りこめない物語となりますね。

えっ、ちょっと待てと。「大林宣彦の映画には、別に自分の知っている学校や友達が出てくるわけではないよ?」となりますが、ここで大林作品においては「日本人共通の故郷的な地方都市」「近所の兄ちゃん姉ちゃん的な素朴な棒読み演技」「わかりやすく有名な児童文学・ジュブナイル短編」「芸能界の新人アイドルという国民の妹的存在」「ゲスト的に唐突に出演する有名人」をうまいこと配置して、「あ、この女の子、昔のクラスメートだったかも」「この路地を、昔自分が通っていてもおかしくない」感を出していると思うのですよね、とりあえず。

そして「自分の知っている風景・人物」を材料とした上で、いよいよ学生映画としての悪ノリ、おふざけ、荒唐無稽な演出がこねくり回され、SFやら怪獣特撮物やら不条理物やらに仕立て上げられ、文化祭にて上演され、意味不明な内容ながらも学内友人たちには大うけする、というのが学生映画のタダシイ姿であり、多くの映像関係者の原体験でもあり、今なお作品の舞台として使われる設定だと思います。
そこにおいては、もう過激に、バカバカしいくらいに異常な設定をぶち込んだ方が、「本来の学校生活の日常のつまらなさ」を吹き飛ばしてくれるエネルギーを持つのであり、フィルムに傷をつけて変な加工をしたり、コマ撮りをしたり、学生ながらのチープな技術を駆使するのですね。

で、大林映画において、この「チープな変な加工」が頻出するところが、また問題なのでありんす。やりすぎだろ、と。学生が喜々としてやりそうなチープな演出を、大の大人が大金かけて、大林映画盛り込みすぎやろと。

●なぜ大林映画は私たちをズッコケさせるのか●
いえね、友人Iちゃん氏も私も、特に1983「時をかける少女」においては「良かった。素晴らしかった。」と大絶賛なのですよ。基本的に。
ですが、ビールひっかけてオンライン談義に繰り出した結果ですね、「15歳があんな事言うか!」「あの時計屋のジジイはなんじゃ?」「どようびの、じっけんしつ~っ!」と、チープな演出、ついていけない唐突なセリフなどにツッコミを入れるだけで、酒が進んでしまうのですね。う~ん、もう、どーしても語らずにはいられないって感じ。
そうしたシーンに対してIちゃん氏が言った適格な表現として、「ズッコケちゃいますよ!」と。本当に見ててズッコケちゃうんですよ。

ストーリーが動き出す部分にて、理科実験室で謎の薬品の香りを嗅いで、たおれる原田知世。シリアスな事件発生シーンですね。そこで側にあった何かのどうでもよい黒い粉が落ちて、原田知世の顔にかかるんですけどね、えっ、かかりすぎやろ! 顔真っ黒やんけ! とそっちが気になっちゃうんですね。
男子学生二人に抱きかかえられ保健室に寝かされ、先生方も心配して介抱してあげてるんですけどね、あの、顔真っ黒のままだから! まずそれ拭いてあげて! だいたいその粉、話に関係ないよね? 理科室に無造作に置いてある大量の黒い粉、なんなの、二酸化マンガンか何かなの? かけすぎ! 酸素発生しちゃうよ! と、ツッコまざるをえないのですね。

それからこの話、基本的にタイムトラベラー物、超能力物ですから、超自然的現象シーンがあるんですけどね、その演出がすべてチープ。コマ送りで人物を動かしたり、モノクロとカラーを混ぜたり、さらに異常な色調にしたり、時計の針が手書きアニメ風に飛び出して来たりとかとか。
だいたい、コマ撮りって、最初に8ミリカメラ手にした中高生が必ず試したくなる、特撮とも言えない基本の禁じ手ですからね。そのチープさ表現がハンパない。

1977「ハウス」も、コメディホラー物だけあって、さらに過剰にチープな演出てんこ盛りのぶっ飛んだ内容ではあったのですが、少女マンガ的、学園テレビドラマ的という枠組では安定した舞台に立脚していて、わかりやすいとも言えたのです。ハリボテ原色ペンキ絵風の混沌映像ながら、「なんの物語が立ち上がったのか」が、明確なわけです。ところが1983「時をかける少女」においては、アイドル青春映画が始まるかと思いきや、小津安二郎のような渋い日本映画のベースがどーんと敷かれ、その上に棒読み主人公が配置され、超能力シーンにてチープな学生映画手法が展開されるというわけで、一見、マジメな舞台に見える分、余計に「もう、集中して話に入れない! ズッコケる!」となるわけです。
問題は、なぜ、わざわざ「ズッコケる」ように撮るのか、という事です。そこには「作り物」という視点が、強烈に突き刺さっているように感じます。

作り物映画の究極としては、全てを自分で無から描き出すアニメーションの世界があるわけですが、その場合の根本姿勢は「いかに本物らしく見せるか」ですよね。白い紙という虚無空間の上に、いかに絵を描き動かし、本物らしく生命を吹き込むかの技術革新です。「絵だという事は解っている。人が描いたものだということは解っている。それが、こんなに生き生きと、一つの世界として立ち上がり、動いているとは、なんと素晴らしいことか!」という感動がアニメの根本にあると思うのですね。
片や実写映画においては、「記録映像」「ノンフィクション」という究極の現実、「写実」でもあるわけです。現実の出来事を正確に写し取り、現場で体験しうることを忠実に再現してくれる価値。そこに嘘は無く、「写実」という絶対的な説得力で観客を引き付ける。

つまり、「実写映画で架空の創作物語を演じる」という事は、事実を材料に嘘をつくような、相反した指向があると思うのですね。どっちやねん、と。現実を写したいのか、作り物を見せたいのか、どっちやねんと。
そのバランスを上手にとりつつ、「現実かな? 作り物かな?」と物語性の平均台の上をソロリ、ソロリと歩くように映画を見ておりますと、大林宣彦がドカーンとチープ演出を繰り出してくる。「うわーっ! 作り物だったーっ!」とズッコケちゃうわけです。

これはもう、大林宣彦の宣言ですよ。「あたしゃ、作り物を作る。」という強烈な決意表明ですよ。なぜ思い切ってこんな宣言ができるかと言うと、実は「実写の生身の力」を信じているからとも言えますね。乱暴に言ってしまえば、「尾道の、この良い感じの路地を写しておけば、大事な事はそれだけで伝わる」「14、5歳の純朴な少年少女を写しておけば、演技なんてしてもしなくても、素の魅力はフィルムに写る」という確信。この確信の元に、時に観客を大げさにズッコケさせ、ズッコケることで、作り物の物語の上に、隠しきれない素の魅力が、新しい生命として立ち上がる。と、まあ、こんな大それたことを企て、なんと成功してしまっているのが、大林宣彦の恐ろしさだと言えるんじゃないでしょうか。

原田知世の演技は、はっきり言ってヒドイ。最初から最後まで、学芸会の演劇調であり、ただの棒読みよりなおヒドイ。次にヒドイのは未来人深町の棒読み演技であり、主人公二人が学芸会なのですね。一方、先生役の岸部一徳や幼馴染役の尾美としのりはさすがに上手で、実に自然。この演技のギャップが同じ空間に共存しているところが、なんとも異次元感を出していて、恐ろしい。深読みすれば、時空移動能力を備えた二人の演技だけが異様に下手なのであって、これはつまり、「作り物の上に輝く新しい魅力」という理念に合致しているわけですな。
ということで、あとは褒めるターンでまいります。

●脚本のうまさ●
1983「時をかける少女」をあらためて見直すと、脚本が実にうまいのですね。尾道の素朴風景や、ズッコケ演出シーンに目を奪われてしまいがちですが、SF短編物としても悲恋物としても、うまく円環が出来ている。ネタバレした上で見直しますと、まず冒頭シーンからして、どの瞬間から未来人深町の洗脳が始まっているのかが明確にわかる作りになっており、情緒的にも実にうまいですね。スキー場で二人が出会い「ここから嘘が始まった」のがわかり、「ここから騙されたニセモノの日常」でもありながら「ここから始まった純粋な恋」でもあり、2度見目の方がグッときます。

現実の男、幼馴染のゴローちゃんと、非現実の男、未来人深町との対比も良い。現実・日常から逃れるわけにはいかないゴローちゃんの視線の重さなどもしっかり描かれていて、「これが、あのズッコケ時間跳躍シーンと同じ映画空間かっ…」と愕然とします。

校庭での弓道シーン、良いですね。ああした校庭のホコリっぽさ、せまい所で色んなクラブがごちゃごちゃ活動している空気ってのは、もう誰が見ても「知っている」学生生活感が出ていて、ビシッと締まります。

さてさて、こうして「良いところ」を味わいながら見ていきますと、なんと、過剰だと思われたチープな作り物シーンも、「あれはあれで、なかなか趣があって良い…」「うん、あれで良い。時間跳躍という超常現象を、現代の映画という地平に表出させた場合、ああなるのが正しいのだ。」「あの棒読みセリフ回しだからこそ、逃れられない運命を表しているのだ。演技の上手い下手で表現できるようなテーマではないのだ。」と、ズボズボ沼にはまっていくことになりますので、恐ろしい限りです。

●1983「時をかける少女」ラストシーンの到達点●
ということで、一度ツボにはまってしまうと、数々の大林ズッコケ言語は、すべて適格で雄弁な最適解のように思えてくるのですが、その究極・完成形として私が最大の衝撃を受けましたのが、1983「時をかける少女」のラストシーンです。

ガッツリネタバレしますと、「土曜日の実験室」に舞い戻った原田知世は、未来人深町くんからすべての経緯を聞き出します。小さいころの深町との大切な思い出も嘘であり、本来はゴローちゃんとの思い出だった。すべてが嘘だった中で、しかし短い間に芽生えた深町と原田知世の愛情は本物であり、二人は苦悩します。
別れの運命からは逃れようもなく、深町はお互いの記憶を消す終焉の準備を始めるのですが、ここで! 深町くんはおもむろに実験室の乳鉢を手にし、あの日と同じ状態を再現するためか、原田知世の顔にあの黒い粉を塗ったくりはじめるのです! まじめな顔で!

もはや大林節にはまった状態の観客は、ここにおいてズッコケるわけにいかず、「ああ、あの瞬間に戻ってきたんだなあ」とジーンしてしまうのですね。異常なくらいにベッタリと頬を黒く染めた原田知世のシュールな顔を見て、ズッコケることなく、まるで伝統芸能の様式美のようなものさえ感じつつ、二人の別れを深く感じ取るのですね。
目では「異常なものを見た」とわかっているのに、心では感動してしまう。沼です。大林沼です。

話がそれました。「ラストシーンの到達点」として語りたかったのは、さらにこの後です。
実験室での別れから時が立ち、「化粧っけのない」内気な大人に成長した原田知世は、大学の薬学部に残って研究しているのですね。幼馴染のゴローちゃんとも、付き合っているのかいないのか、たいした進展はなさそう。そこに、お互い記憶のない状態であろう未来人深町が訪れ、偶然か必然か、高校時代のスキー場と同じように、二人がぶつかって会話する。このあと再び二人の関係が始まるのか、ただ一瞬の邂逅として過ぎ去るのかは描かれないまま、物語は終わる・・・。

と、ここでエンディングテーマである、「時をかける少女」(作詞作曲:松任谷由実、歌:原田知世)が流れ出すのですが、なんと映像は、二人が別れたあの日の高校の理科実験室、ひとり床に倒れていた原田知世がむくりと起き上がり、深町くんの手で塗られた黒い粉をべったりつけた顔のまま「時をかける少女」を歌い出すのですよ!

その後、曲が進むにつれ、この映画の各撮影シーンにて原田知世が歌い、おそらく撮影の間のカットシーンなども挟み、時に他の共演者も合唱するというすさまじいインパクト映像の中クレジットが流れ、共演者の拍手とともに映画は幕を閉じるのであります。
なんだこれは。わたくしはいったい何を見てしまったのか。

単純に考えれば、「アイドル映画」のエンドロールのサービスとして、NG集的なオマケシーン、およびテーマ曲の紹介を、歌謡番組さながらに共演者みんなで盛り上げた、とも言えますね。
しかしですね、これ、主要なシーンの多くで、原田知世が歌うカットをちゃんと撮影しているのですよ。ということは、映画撮影の当初より計画していたことであり、これこそが「写実」と「作り物」を入り混ぜた大林宣彦の、最重要立脚点なのではないかと思えるのですね。

原田知世が起き上がり歌い出すシーンは、映画のクライマックスで深町くんとの別れのシーンの直後と思われます。つまり、お互いの記憶を消し深町くんが未来に帰った数分後、この映画のヒロインは目を覚まし、歌を歌っているわけです。
もちろんこの時の原田知世は、映画物語上のヒロインではなく、演者としての原田知世であります。いわゆるメタフィクションな次元からのメッセージというわけで、良くある「幕引き後」の演出であり、さほど違和感なく聞き流すことのできる、ほのぼのエンディング曲シーンと言っても良いかもしれません。

しかしこの映画のヒロインは、いままで物語上、さんざ時間跳躍やら空間移動やら繰り返し、まさにメタでチープな演出によって紡がれてきた物語空間の登場人物なわけです。「エンディング曲シーンだけが、いままでのメタ性とは違う、本当のメタ空間、ただの撮影現場シーン」と、どうして言えるでしょう。わたしには信じられません。「幕引き後」などではなく、かといって今までの物語の延長でもなく、第3の物語次元として認識されるべき立ち位置が、あの歌唱空間なのではないでしょうか。

1983制作のこの映画の後、おもにマンガやゲーム、アニメの世界にてタイムリープ物は数多く作られ、「特異点」ですとか「世界線」ですとか「多次元宇宙」ですとか「異世界転生」ですとか「世界のやり直し」ですとか、もうええわというほど大量生産・大量消費されております。が、それらはほぼストーリーのための道具であり、さらに勝手な解釈を加えて言ってしまえば、近年の物語性の喪失という大きな流れの中で、本来、物語が担うべきモチベーションを、安易な世界設定に丸投げしてしまっている状態、だと感じております。
そんな現在と比較してみますと、37年前の理科実験室で原田知世が立ち上がり歌い出した瞬間というのは、自然かつ必然な現象として、作品世界の中に新次元が出現した瞬間を明瞭に映し出しているのではないでしょうか。

このエンディングシーンがあまりに衝撃的だったので、キーワードとしてネットで検索してみたところ、どうやら本年四月の大林宣彦の訃報の後で、この「時をかける少女」をテレビ放映したそうですね。その際、放送時間の都合からか、エンディングの歌唱シーンをすべてカットしてしまったと。それで「なぜあの名シーンを流さないのだ」「むしろ本編を削ってでも、あのエンディングロールを放送しなければ意味がない」との批判が大量に発生したようで、なるほどなるほど、かつてこの映画を見た多くの人は、わかっておるのですね。
「あのエンディングを見て、原田知世のファンになった」という人も多く、まさにアイドル誕生シーンとしても象徴的な瞬間だったと思われます。

最後に一言だけ付け加えますと、とは言え、とは言えですよ、こうして少年少女の素朴な魅力を見事にフィルムに写し、現実と作り物を織り交ぜ、映画としても見事成功させる製作者の手腕とは、やはりオッサンによるオッサン目線の価値観で構築された製作活動だと思うのですよね。世の中には製作者の立ち位置・価値観を上手に隠し、まるで神の視線で編まれたかのような映画も存在しますが、大林宣彦は「作り物でござい。」「作ったのはオッサンでござい。」という事を堂々と表明しているように思われます。究極の学生映画ではありますが、被写体の少年少女たちと同じ学生目線で撮られたものではなく、オッサンによる青春なのであります。さらに本稿が、それを見て喜んでいるオッサンによる感想であることからは、逃れようがないのでございます…。

●Re:転校生●
さてさて、つい「時をかける少女」で盛り上がってしまい、言いたい事のほとんどを話し、書いてしまったのでありますが、最後に、本来の課題作品であった2007「転校生 さよなら あなた」について少しだけ。

こちらはですね、「ハウス」よりも「時をかける~」よりも、ずっと見やすいです。あいかわらずの作り物宣言、学生映画風チープ演出も健在ですが、映画全体がより大きな一つの風景、一つの歌の中にまとめ上げられていくような印象となっております。
おそらく、1982「転校生」の自作リメイク物ということで、いわば前作の変奏曲として、最初から「作り物」であることが明確なのですね。「時をかける~」が未来人深町による記憶操作によるニセモノの日常として立ち上がっていたように、「さよならあなた」では、大ヒットした「転校生」の平行世界という感じ。いや、斜めにズレた世界という感じ。

いえね、この映画、最初から最後まで、ほとんどのシーンにて画面が斜めに傾いているんですよ。良く言えば異世界感、ファンタジー感の演出と言えますが、どちらかというと「単に見ずらいがな。首、傾くがな。」という印象。ほんのときどき、画面の水平が合った時に、急に現実感のあるシーンとなって面白いのですが、効果的に演出されているのかどうかは微妙です。

さて、ズドンとネタバレしますと、この映画はヒロインが死ぬ映画です。男女入れ替わりのあげく不治の難病をわずらったヒロインを車椅子にのせ、二人が長野の山中を逃避行する物語です。「山中恒かと思ったら堀辰雄だった!」とびっくりしましたが、そこに悲劇性は薄く、妙にしっくりくるのですね。

逃避行の道中、時代錯誤な旅芸人一座と行動を共にしたり、謎のパンク風ピアノ運搬姉ちゃんに載せてもらったり、あげくに山中の道端に個人の真新しい墓が、どかーんと孤立して建てられたりと、「堀辰雄かと思ったら寺山修司だった!」という驚きもあるのですが、それらをえいやっと飲み込んでしまいさえすれば、ひとつの物語として、違和感なくまとまっているのです。

なぜ「さよならあなた」においては、作り物感を強調した意味不明展開が「違和感なくまとまっている」かと言うと、この物語空間が「リメイク」「変奏曲」として「作られた」ものであり、その作り物の歪んだ世界が、本来の自然の中に帰着していく大きな流れが、見事に表されているからだと思います。
男女が入れ替わるという歪み、本来は尾道で元カノとキャッキャウフフしていたはずが長野に転校させられた歪み、クラスの優等生として文学・哲学世界に精神の安らぎを得ていたはずが、彼女の変貌により他人と関わっていく歪み、そうした各キャラ、物語設定の歪みが終幕に向かって癒着していく流れが、一本の映画として落ち着いて鑑賞できました。

そこにおいて、「歪みの解消」が主題なのではなく、「歪みの融合による新しい生」が主題となっているのですね。男女入れ替わりが元にもどって終わりなのではなく、そこに確かに新しい理解が生まれた。死をもって終わりなのではなく、生と融合した理解が生まれた。そしておそらく、映画としての「作り物」と「自然・写実」の融合も図られた、という作品だと感じました。

●「作り物」映画の壁●
以上で、九州のIちゃん氏との「追悼:大林宣彦」オンライン飲み会の報告と考察は終わりです。
が、蛇足になりますが、「映画オンチ」としてのわたくしの未解決の葛藤を最後にひとつ。

上記で感想を述べました通り、大林宣彦による「作り物」テイストは、私には受け入れ可能だった。びっくりズッコケな抵抗感は当初あるものの、物語軸に沿って鑑賞する限り、印象は好転し、理解可能なものとなった。
しかし、私が自身を「映画オンチ」と感じ、うまく咀嚼できない映画作品が山ほどあることも事実でして、その際に咀嚼の壁となってぶつかるのが、まさにこの「作り物」感であるわけなのですね。

外国映画で言いますと、タランティーノ作品や、ティム・バートン作品に感じる作り物感。なかなか手ごわく苦手な壁です。
日本映画で言いますと、たとえば2016「シン・ゴジラ」などを見ますと、前半は「異常な出来事を現実として見る」立場で深くのめり込んだのですが、後半のゴジラを鎮めるための数々の作戦の「作り物」感が苦手でした。

そしてもうひとつ、近年、印象深く「入れなかった」日本の映像作品として、2017「そうして私たちはプールに金魚を、」という短編映画があります。
この「金魚~」の監督である長久允は大林宣彦と同様にテレビCM製作者としての成功を経て映画を作り、2017年、この「そうして私たちはプールに金魚を、」にてサンダンス映画祭ショートフィルム部門のグランプリを取るという、世界的に才能を認められた方なのですね。映像は、ある意味大林宣彦に似ているんですよ。情緒に寄せた画面加工、作り物なのです。ですが、その先の「にじみ出る素材の輝き」みたいな部分に、なぜか私はたどり着けなかった。「自分が通う学校と知り合いが出てこない方の」学生映画に感じてしまった。

長久允は昨年、長編デビュー作として「WE ARE LITTLE ZOMBIES」を撮り、こちらもサンダンス映画祭で評価を得ています。私は未見ですが、予告映像などを見た限りは、おそらくやはり壁が高い。
大林宣彦が受け入れ可能で長久允が咀嚼困難となるのは、実はたいして大きな差ではなく、平均台からぎりぎり落ちるか落ちないかの微妙なバランスなのかもしれません。それでもやはり「わかるはずなのに、なぜかわかんねえ!」という取り残され感が、長久作品に私が感じる葛藤であり、衝撃として刺さっているのです。目も耳も作品に注ぐことになる映画という仮想現実体験において、なかなか自己のセンサーの調整にとまどう、映画を前にどうして良いのか困る苦悩が確実にあるのですね。

この、対応に困ってしまう「映画オンチ」に対して、数多くの多様な映画を咀嚼可能な映画ファンの資質は、おそらく「作り物に対する信頼・期待」なのではないかと思います。次はどんな新しい作り物を見せてくれるのだろう、どんな作り物のテクニックにて、現実では味わえない衝撃を自分に与えてくれるのだろう、という前向きな食欲を、映画鑑賞眼として持っているや否や。
それは同時に、映画製作者側の資質でもあろうことは容易に想像がつきます。

大林宣彦の遺作となった2020「海辺の映画館 キネマの玉手箱」を九州のIちゃん氏が見たというので感想を聞いたところ、「もう、ハチャメチャ。さすがについていけない…」というので、きっと、長年作り物を作ってきた男の最後の大暴走が輝いておるのだろうと思い、ぜひ近々、体調を整えて鑑賞してみようと思っております。
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