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風立ちぬ

「風立ちぬ」感想です。
 アニメ映画の方です。2013年夏の公開からだいぶ経ってますので、ネタバレ全開でまいります。

近年「スッキリ見れない系」宮崎アニメの最高傑作
 堀辰雄の小説と、ゼロ戦設計者の堀越二郎の実話を混ぜ、揺れ動く戦前近代日本を描く半現実・半妄想物語。これが予想をはるかに超えて心に刺さり、同時に悶々と後を引く傑作でありました。

 いわずとしれた天才アニメーターであり、『風の谷のナウシカ』において天才漫画家でもある宮崎駿という人は、その名声の大部分を国民的・世界的アニメ映画監督として知られております。どの家庭にも「ジブリ映画」のビデオやDVDが並び、日本人の子育てに多大な影響を与え、定期的にテレビ放映され繰り返し高視聴率を上げるという、国民的定型アニメ映画像を形作っております。

 ところが「誰もが知る」宮崎監督となっていくとともに、紡ぎ出された世界は、より「誰もがスッキリとは見れない」物語となっていったように思うのですね。おそらく「もののけ姫」からでしょうか。一本の映画としての物語性よりも、個々の登場人物の意識・真実を重視するという思い切り。スッキリ気持ち良い読後感を取り繕わず、描き切れない部分はあえて描かない突き放し方。

 これは宮崎駿に限らず、多くの物語作家、映画監督の普遍的態度とは思います。が、この人の場合は、その上さらに強烈な葛藤が乗っかっているように見えるのですね。つまり「人間の抱える問題を追求すべきだが、アニメは子供のためのもの」という葛藤であり、「創作の中では自由にのびのび好きな事を描きたいが、地獄である現実に目を閉ざすわけにいかない」という葛藤であり、「絶大な影響力を持つ大人である自分と、無責任なガキである自分」という葛藤。

 ワタクシすべての宮崎作品を見ているわけではないのですが、
「なんかとんでもないことになって来たぞ。」
とハッキリ思ったのは「千と千尋の神隠し」からですね。
 この映画、一見「日本の児童文学」の体裁を取っており、小学生の女の子が日常から異界に迷い込み、また戻ってくる話です。国民的家族アニメの定型ドンピシャになりそうなものですが、これが見ていてどうにもスッキリしない。優れた児童文学にある「円環が閉じ、主人公が成長する」感が無い。どうも意図的に描かれていない。ただし、細部と動きはテッテーテキに高度に作りこまれているので、主人公目線で見る限り、濃密な異世界探索をする事はできる。

 「崖の上のポニョ」に至って、とんでもなさは加速し、「日本の幸せな絵本」の体裁を取りながら、世界の破滅と死のモチーフを隠すことなくちりばめ、その辻褄は一切説明しない。
 「千と千尋」も「ポニョ」も、どちらも好きなんですけどね。ただし、天才オッサンの作ったものを、腐れオッサンのワタクシが見た場合、自身の子供自我をフル可動して意識的に没入して見るコツが必要と言いますか、逆にオッサンの知識を総動員して世界系構築物として見る必要があると言いますか、
「この気持ち、どうすりゃええんじゃい!」
というモヤモヤを抱えながらの鑑賞となるわけですね。

 いえね、ワタクシもともと「意味不明な物語」は好物だと思ってたんですよ。
「宇宙で黒い板とぶつかったら巨大な赤子でハイおしまい」って映画ですとかね、
「世界を救うためにロウソクともして温泉を歩けと狂人に頼まれて半信半疑で歩いてハイおしまい」って映画ですとかね、
「なんか知らんが巨大な自分の顔の気球が襲って来てもう逃げられないハイおしまい」ってホラー漫画とかですね、
意味なんかわからんのですが、それ以上の意味なんか求めずに心に刺さり、大変に面白く満足なわけです。
 ところがスッキリしない系宮崎アニメにおいては、
「これ、隠されてるんちゃうか。ホントは飲み物もデザートもおみやげも用意したフルコースメニューだったのに、作ってるうちに半分投げ捨てちまったんちゃうか」って不安な気持ちにさせるんですな。葛藤の結果、重要な物語性をあえて描かない事を選択した映画なのではないかと。もしくは、そんなことを重要だと思う立場に嫌気がさし、物語を辿る事に固執した読者を切り捨てるつもりで作られた話なのではないかと。

 長い。前置きが長い。

 で、当時の「監督引退作品」として出てきた「風立ちぬ」がですね、この「物語性か自由度か」「夢か現実か」という不安定な葛藤に、一つの答えが出た名作であると感じました。
 あいかわらず、いや今まで以上に意識的に現実と妄想の両方がぶち込まれ、生と死の曖昧な世界が描かれた作品なのですが、とても見やすかった。やはりスッキリはできない、あいかわらずスッキリしない読後感の映画ではあるものの、見終わって手にする「たしかな衝撃が心に残る満足感」は大きく、ゆえに見やすいのです。
「ひょっとしておれは、この映画に仕掛けられた大事な要素を、まったく読み取れていないんちゃうか」という無駄な焦燥を感じる必要がない。読み取れていない部分は多々あるだろうけれども、そこは未解決のままでも感動できる、という上手さ。このへんの事をちょっと、備忘録を兼ねて書いてみます。

見やすい要素
 一つ目の理由として、本作の歴史的時間軸がハッキリしている点ですね。主人公二郎の明治末期での少年時代、大正末期の青年時代、昭和初期の設計者時代、それぞれが、それなりの時代背景を描き込みながら展開されるので、読者が道に迷う事は無い。
(「それなりの時代背景」と言いますのは、決して「リアリティのある綿密な時代背景」ではなく、あくまで「登場人物の周囲に限定されたアニメ的時代背景」であるわけですが、おそらくこれは意図的に抑制された描き方かと思われます。この作品の主題が「その時代を上から目線で総括する」事に偏らないための。)

 二つ目の「見やすい」「道に迷わない」理由として、主人公二郎の声が挙げられますね。「エヴァンゲリオン」「シン・ゴジラ」監督にして声優ど素人の庵野秀明が演じているわけです。ど素人ですから棒読みですし、感情の起伏もない。(さらに言えばエヴァ制作で精神的に落ち込み、病み上がり状態での起用らしい。)
 そりゃ当然、いきいきした少年時代の子役から青年期の庵野声に変った瞬間「なんじゃこりゃ」ですよ。有名人ですからね、あのヒゲメガネ顔がスタジオでマイクを前にしている映像が見えちゃって見えちゃって、「えっうそでしょ無理ごめんなさい」感がすごいですよ。
 ところがですね、それにもめげず話が進み、物語内は震災が起き人々入り乱れ、復興の中で設計者として仕事を始め…となってきますと、だんだん馴染んでくるんですよ。見やすいんですよ。まわりのキャラが、それぞれいきいきと独自の魅力を噴出させているなかで、そこだけモノトーンのような庵野声を追うと、
「ここが主人公の声やで」
という事がハッキリ伝わって来て、見やすいんですね。そこにだけ、演技ではない「ただの本物の声」があるわけです。

 主人公感て、なんでしょうね。文学、ことに私小説や児童文学における主人公とは
「私」
に他ならず、この「私」が読み手である「自分」と、どれだけシンクロするか、というのがひとつの「のめり込まされ力」につながってきますね。
 本来、異なった人格であるはずの主人公と読者がシンクロするためには、そこに読者が入り込むための「器としての空虚さ」のようなものが求められると思うのですね。空虚というと語弊があるやもしれませんが、「自意識の部分は空虚に手放し、読者におまかせし、ただし無意識では強力な宿命や業(ごう)や正直さに貫かれている」といった人物像ですね。漱石の「三四郎」なんか、ドンピシャですわな。佐藤さとるの児童文学の主人公も、たいてい物静かな少年や、無口で実直な技術畑の青年だったりしますね。
 今回の「風立ちぬ」の二郎、このどうしようもない空虚さと正直さと業がヤバいほど詰め込まれ、強烈な主人公っぷりでした。ヤバいほど詰め込まれた結果「こんな変人に誰がシンクロできるかっ!」という文句が山ほど出るのはわかるのですが、スッキリできない宮崎アニメの変遷を経て、この主人公像に到達したか!という点でも感慨深いのであります。

 そして三つ目にして最大の見やすい理由は、これが切ない恋愛映画であるからですね。切ないと言いますのは、菜穂子の死を前提として始まった恋愛である切なさ。そして愛する人の死を身近に感じながらも仕事に没頭し、菜穂子もまた自分の演じるべき役割を全うする切なさですね。
 そこには死という明確な到達点が存在し、ラストに宿命のように流れる「ひこうき雲」を聞きながら涙せざるを得ないのですよ。ここにおいてもはや、物語の隠れモチーフですとか、世界の多層関係ですとか意味を成さず、すべて涙にて流れゆくのですよ。

葛藤と許し
 はぁ~。ええ話やった… というわけでここで終わっても良いのですが、この映画における
「葛藤」「スッキリしない部分」
について、あえて流し切らず触れてみたいと思います。

 まず、映画の中で明確であり、またあちこちのレビュー・インタビューでも触れられている事として、
「人殺しの道具である戦闘機を、喜んで作るとはどういうことか」
「死にゆく妻をほったらかしておいて、殺人道具の開発に没頭するとは何事か」
「平和主義者、環境保護活動家にして戦争機械大好きオタクのアニメ監督とはいかに」
という葛藤がありますね。
「ピラミッドのある世界と無い世界、どちらが良いかね」
なんてセリフも映画内に出て来ます。
 この問題についての主人公二郎の答えは「ぼく、美しいヒコーキを作りたい」であり、要約すれば「他人を犠牲にしても内なる衝動と美を追いたい、つーか、判断のしようがない。ぼく他の生き方できないっす。」って事ですね。

 試験飛行の機体が壊れるとき、二郎は、翼の中のどの骨がどのように耐え切れず崩れていくのか「見えて」いるんですね。普段無口な二郎が、ヒコーキの力学的な場において、言葉にならない言語でもって、雄弁に機体と会話してるんですね。
 そもそもこの映画通して、飛行機がぶっこわれ、墜落するシーンがすべてスゴイ。すごく雄弁。それは、人の死とか戦争の悲惨さとかにおいて雄弁なのではなく、力学的に限界が来て「もう飛べない」叫び、ヒコーキ語において雄弁なのですね。そうしたシーンをくりかえし見せているのは観客への説明ではなく、飛行機と技術者の会話のように見えるのです。
 つまりこの映画、普通の人間の言葉がわからん男、身近な他人への正しい配慮などできない、ヒコーキ語しか話せない無責任なガキである、ある阿呆の一生と、それを許し愛し演じてくれたある女の話、なわけですから、そりゃ切ない。ああ切ない。
 そして映画のラスト、夢の世界にて、菜穂子は二郎に「あなた。生きて。」と言い残し、消えてしまうのですね。

 この主人公二郎と監督宮崎駿のシンクロした葛藤・許しを観客としてどう見るか。この映画を公開当時に見た友人は、
「面白かった。アンノの声もアリだった。だけど、最後の「生きて。」はダメでしょ! 二郎が自分の夢の中で許してもらっちゃう、つまり監督が自分の作品の中で許されちゃダメでしょ!」
と言っていて、なるほどスルドイね、そうかもね、と思ったのです。が、自分で改めて見てみますと、まったくそこは気にならず、むしろ菜穂子が「生きて。」という事が、この映画の最大の意思表明にしてスッキリした部分だと思ったんですね。

 まず、ラストシーンの異空間は、本当に主人公二郎の夢なのか。
 普通に映画の時間軸を追う以上は、あれは菜穂子の死後、数年後に太平洋戦争が終わった時点での二郎の見た夢である、と見れます。が、確証は無く、違和感もある。(このへんの違和感は後述します。)
 ワタクシの感想としては、あのラストシーンは二郎の見た夢ではなく、
「戦争後の二郎の意識、死後の菜穂子、カプローニの三者が同時に存在する、あの映画の中での『現実』の出来事であり、それが夢か魔法か冥界なのかは検証不能」
といった感じです。
 つまり二郎への許しは二郎自身によるものではなく、他者である菜穂子からの「返歌」である、ということです。他者である菜穂子だからこそ言える許しであり、美であり、演技である、と。
 二郎と菜穂子が最初に汽車で出会った時、菜穂子が言った
「Le vent se leve,」(風が吹いた)
と、それを受けた二郎の
「il faut tenter de vivre.」(私は生きなくてはならない)
というスノッブな会話は、その後の二人の愛の生活を経て吹いた風と、風として去る菜穂子が二郎に返した下の句として収束して見えたのですね。この死をもってのテーマの完成と名歌「ひこうき雲」のリンクに、正直泣けたわけです。

 ラストシーンの異空間の前に、現実世界でのクライマックスとして、二郎が菜穂子の死を察する場面がありますね。おそらくサナトリウムのある山から、菜穂子の死を乗せた風が吹いてきたのを感じた。それはいままで二郎が話していたヒコーキ語による風ではなく、愛する人の喪失という人間語であり、その言葉を聞いた瞬間、おそらくはじめて二郎はヒコーキ語が耳に入らなくなった、というシーンですね。もう十分です。ここで終わっても十分泣けます。が、それではあまりに二郎が可哀そうという事もあるでしょうか、菜穂子の返歌を受け取る機会を与えたのですね。死者である菜穂子と会話をするためには、無数のゼロ戦死者による地獄の代償を歩んだ上での会合となったわけですが。それでも菜穂子と二郎の関係において、彼が許しを得ることは、正しいように思います。

 ただ、「宮崎駿による宮崎駿への許し」という問題は残りますけどね。これはホントにそうかもしれませんね。ただ、制作者にとって作品は自分自身なのか? と考えますと、いや、作品は一番自分を理解してくれている腐れ縁の他者である、という着地点も見えてきますね。

それでも残るモヤモヤは何か
 でもやはり何か変なんですよ。
「は~泣けた。面白かった。」と満足しつつも、やっぱりどうもオカシイんですよ。
 近年スッキリ見れない系宮崎アニメの中でも、より強烈にモヤモヤが残り、しかし、今までと違って、もうちょっと手を伸ばせば、このモヤモヤが何なのか解りそうなモヤり具合なのですよ。
 そして、モヤモヤポイントを追って行きますと、どうも「この話、どこからどこまでが夢なのか」という部分に集約されていくと思うのです。

 まず、この映画は堀辰雄の小説『風立ちぬ』と同タイトルであります。映画冒頭では、小説で引用されたポールヴァレリーの詩の一節
「Le vent se leve, il faut tenter de vivre.」
と、堀辰雄による小説内での訳
「風立ちぬ、いざ生きめやも。」
が掲げられますので、ここまでは「創作物である小説『風立ちぬ』の映画化」でも良いわけです。
 しかし、話はすぐに「飛行機乗り・設計士を夢見る少年二郎」の物語となりますので、「小説『風立ちぬ』をモチーフとした、別の物語」として立ち上がって行きます。しかもその少年の「夢」で映画がはじまり、「夢」で話が閉じる。
 この二郎の見た夢とは、なんなのでしょうか。えー、要はこれ、夢のふりをして、夢じゃないって事ですよね。

 二郎は強度の近視として描かれており、そのぶ厚いレンズを通してみた「ゆがんだ上で、ピントのあった像」が強調して演出されています。冒頭の夢の中で、眼鏡をかけず飛行機を操縦し、町の女の子たちにゴキゲンで手など振っていた二郎が、敵の出現と共にぶ厚いレンズをかける事で別の視界にピントが合い、とたんに飛行機は墜落します。
 レンズ越しに見た世界が「真実」なのか、いや並列した「虚構」なのかは置いておき、ともかく二郎にとっては最初から、世界の見え方は多層的で未確定なわけです。飛行機の持つ夢と兵器の二面性を、少年時代の夢の中ですでに実感しており、その時のピントの合い方で、世界はまるで違ったものになることを知っているのですね。

 夢からさめ、「現実」の蚊帳の中で起き上がった少年二郎は、「現実」の眼鏡をかけて庭を見渡すのですが、はたしてこれ、今度こそ現実なのでしょうか? 夢も現実も、しょせんはレンズ越しに見ているだけの「虚像」なのではないでしょうか?
 その後、生真面目で実直な少年二郎の日常が淡々と描かれるわけですが、これ本当に日常なのでしょうか。総天然色風な明るい光の中で、明治後期の農村・町の様子が描かれ、いじめっ子は何やら理解不能の不気味なはやし言葉、異世界語で喚いております。本を読みながら寝落ちした二郎は夢の中であこがれの設計士カプローニと語り合い、元気に「現実」で返事をし、やさしい母に起こされます。

 これら少年二郎をとりまく世界は、まさに「少年二郎の見た世界」です。夢にせよ、現実にせよ、もしくは「夢から覚めたけれど、まだ夢だった」夢中夢にせよ、究極の私小説とも言うべき
「二郎だけが見える世界」
を描いているように見えるのですね。

 さて、時と場所は変わり、二郎は青年となり、汽車に乗っています。この時点で
「あれ? ひょとして単に時間が流れたのではなく、今までの少年時代は青年二郎の回想だったのかな?」
とも見えるんですね。回想、つまり夢が終わり、ここから現実の話が始まるのかな~と。
 ところがそこで菜穂子と運命の出会いをし、前述の
「Le vent se leve,」「il faut tenter de vivre.」
の会話をするわけです。この会話が、また夢的なモヤモヤを湧き立てるのですよ。

 この映画内の世界には、ベストセラー小説『風立ちぬ』は存在するのか?いや、無いですよね。その小説をモチーフにした映画ですし、小説の発表は昭和になってからですし。
 つまり汽車の中で出会った二郎と菜穂子は、堀辰雄に取り上げられて有名になった詩の一節を知っていたのではなく、その元となるポールヴァレリーの詩そのものを知っていて、しかも「お互い通じる」という確信を持ってますよね。
 これはかなりドキッと、モヤッとします。
「その時代のインテリ層にとってポールヴァレリーのその一節は常識」だったのかどうか、私はちょっと知識不足ですが、二郎が返答した「il faut tenter de vivre.」を聞いた時の、少女菜穂子の笑顔、これ確信犯の笑顔ですよね。
「えっ、あなたも知ってた? おにーさん、インテリ~!」
て笑顔ではなく、
「うん、そうよね。」
っていう無言の笑顔。
 どうもこれがワタクシには
「うん、そうよね。一緒に人生を過ごしたあなたとわたしにとって大切な、この詩の一節。」
って笑顔に見えるんですよね。まるで、この映画のラストシーンの、さらに後の笑顔に見える。えっ、なにそれこわい。魔女ですか。

 その他にもですね、二郎や菜穂子以外の汽車の乗客の表情、震災後の人々の表情を見ますと、なにやら異質なのですよね。
 二郎と菜穂子だけが「世界の自我」を持っている。他の大勢は、二郎と菜穂子の事は目に映っているけど認識していないような、別世界のような独自の現実に生きている。
 はたしてこの世界は、今起きている現実の話なのか、過去の有名な事件を見ている記録映画なのか、主人公二人の自我だけの精神世界なのか、モヤモヤ、グネグネして、大変に気持ち悪く面白いわけです。
 ここにおいて、この映画の「見やすさ」の理由に挙げていた「歴史的時間軸がハッキリしている」という利点は、主人公二人の夢的自我視点においては脆くも崩れ去るのですね。

 二郎がヒコーキ作りにのみ没入し、実生活や他人に盲目的であるのと同様、菜穂子においては「二人の愛の数日間」のためには常識や他人の眼を無視し、さらには「二郎が現実を見てしまうこと」も無視し、最終的には自己の死への現実も無視してしまいます。
 立ち位置は違えど、やはり確信犯的二人、この二人の自我の前では、映画全体の時系列、夢空間の多層構造、どこまで夢でどこまで現実か、など、すべて「どうでもよいこと」であり、同時に
「そのように理解不能な多層性の中で、あなたはあなたの自我において生きて。」
という愛のメッセージであり、
「風が吹いて、生きねばならぬ世界とは、こういうものだ」
という共通テーマに回帰するような気がするのですね。

 二郎も菜穂子も、業と運命にしばられた、厳しく地獄のような現実の中に生きながら、その目線は常に夢的な理想・美・愛に向けられています。二人とも大胆で勇猛果敢な行動を取る人物ではありますが、それは現実に正面からぶつかっているというよりは、夢的言語話者であるゆえの盲目的突進と言えるのではないでしょうか。
 そうした夢的自我の抽出された世界が、あのラストへ続く異空間であり、カプローニもまたそこに同席しうる夢志向人間として登場しています。あの異空間は「ある時点での主人公の見た夢」ではなく、「死んだ者の魂が会合する場所」でもなく、現実世界に常に並走して存在する、思念にとっての本当の会話がなされる世界、と言えるのではないでしょうか。
 かなり宗教的ですね。だいたい、近年スッキリしない系宮崎アニメは、どれも宗教的です。ポニョの洪水後の世界も、風立ちぬの夢世界の描写も、あのドギツイ総天然色笑顔世界は、一種の宗教絵画的異質さを感じます。それらを「もう隠さんぞ。感じたままにワシ、描くもんね。」というのが近年の宮崎監督の意識であり、そのように隠さず描きながらも、他のストーリーや人物描写や時代背景に、それぞれの宿命を込めることに成功した結果、シンプルな感動に到達したのが、本作品の総括となるように思います。

過去への視点はどのように生を語るか
 もう一つ、うまく伝える自信がないのですが、この映画は「過去を振り返った作品」として鮮烈だったと思うのです。宮崎監督が自信のアニメ制作人生を振り返り、また近現代日本と戦争の時代を振り返った作品であることは見た通りなのですが、そこに「過去を向くとは、なんぞや」という普遍的な問いと、作品としての好例が示されていると思うのですね。
 大河ドラマなんかですと、過去の一時点に観客を連れて行き、そこから「今はじまった事」として、主人公の成長に付き添わせますね。ところが映画「風立ちぬ」においては、一見そうなっているようで、そうなってないんですね。
 ラストシーンの異空間にてカプローニと再会した二郎は「ここはあなたと初めて会った場所ですね」と言っています。これは場所の事を指すのみでなく、おそらく時間においても一致・もしくは時間を無視し、「少年時代の最初の夢の時点で、無数のゼロ戦の屍が存在する場所に二郎は居た」と感じられます。「最初の出会いの時に、すでに二人の人生を知っているかのような菜穂子の笑顔」と同じ感じです。映画・アニメ・小説に限らず、作品に没入して観るということは、当然、その場面場面の時空間に「本当にいる」気持ちにさせてくれるのが大事ですが、ことこの作品に限っては、「ええい、その場面没入型の冒険活劇は今回はもうええ、今回はジジイになったワシが、語っておかにゃならん話なのだ」という意識から逃れられないように見えるんです。
 やはり昭和の戦争の事を語る以上、その共通意識は大きいですよ。どう描いても映像の20世紀的な、その時歴史は動いた的な背景が脳裏をよぎり、下手すりゃアニメに実写記録映像重ねる手法もありかな?みたいな全体像を想像しちゃいます。が、映画「風立ちぬ」のスゴイところは、「過去の時間を振り返って再現しているようで、誰がどこを振り返っているのかわからない」ところであり、駿じいさんが振り返りたかったのは、己の創作人生の総括ではなくて、その場その時に存在し、そこにしか存在しえない生きざまなのでしょうな。歴史を扱ったドラマで、時間にそった人物の成長が何もない、結局その時代の総評が何も伝わってこない、こんな味わいの話って今まで無いと思うのですがどうでしょう。

 最後に、小説『風立ちぬ』の話をば。
 堀辰雄の小説では、死に近づき衰えゆく「節子」のそばに、しっかりと主人公「私」が付き添っているのですね。そうして、死にゆく節子の心とシンクロすることで、周りの世界が(自然が)新たに美しく見えるのだ、というような心境を描いています。アニメ「風立ちぬ」とは、かなり違います。まあ、アニメと違い、小説の「私」は自身も結核に罹患しているゆえ、いっしょにサナトリウムに入るわけですし、小説家である「私」は他の人物以上に人間語をこねくり回す男でもあるわけです。
 この昭和初期のベストセラー小説の中に立つ「私」は、愛する者の死と自然を前に得たものを作品として書こうとするわけですが、平成のベストセラー監督である宮崎駿は、死にゆく菜穂子を二郎には見せず、二郎の内面も言葉にしません。小説では、死と寄り添いながら美が立ち上がっていく過程がヒリヒリと描かれるのですが、アニメでは、人間の死と美とは関係が無く、むしろヒコーキの死をもって描くばかり。
 ラストシーンの異空間において、はじめて二郎はヒコーキの死と人間の死が一致した世界に立っているのだと思いますが、この期に及んでも自分の言葉で人間性を語ることはなく、ただ「ありがとう。ありがとう。」と言うことしかできないのですね。いや~、この時の庵野声が本当に良かった。愛する女性が時空を超え、純粋な笑顔で許しを与えて消えていくというのに、「ありがとう。」しか言えない、このデクノボー感、ダメ男の魂の声、というものが、まったくもって真実として伝わってきました。何も成長などしていない、人間的成長などはなから意識していない。この瞬間、アニメ「風立ちぬ」は小説『風立ちぬ』の持つ崇高さから奈落へ転げ落ち、同時に小説では描くことが不可能な、残された男の真実の嗚咽を表現するに至ったのですね。むぅむぅ。
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